ふしぎ子の早慶高校→都立?受験チャレンジ

2021年受験 ふしぎ度強め女子の無謀チャレンジ記

春ランニング ~私の震災体験~

今日は、高校受験の話から少しそれます。

久しぶりに朝、ジョギングに行きました。
空は水色。
富士山は雪をかぶった白。
菜の花の黄色。

ウィルスの脅威に脅かされている世界とは思えないくらい、平和な早春の景色です。
そんな中、走っていたら9年前の3月11日を思い出しました。


あの時、ふしぎ子は年中さん(6歳)でした。
私が都心にある親会社でプレゼンまっ最中の時の揺れでした。
インフラ提供をしていた社では、激しい揺れがあった次の瞬間には親会社の人々は、すぐに臨戦態勢の業務に入っていました。
ビルは頑丈に作られているので、安全。
もしこのビルを出るのであれば、自分はこの安全なビルを自らの意思で出て、もし命を落とす、怪我をしても社のせいにはしません、という書類にサインをしなければ、ビルを出ることさえ出来ませんでした。

当時ふしぎ子を、保育園よりも長く子どもを預かってくれる、超人気幼稚園に預けていたのですが、21:00までには迎えに来いと連絡が来ました。
それも私の回線からはどこへも連絡が取れない中、マスコミ回線からはコンタクトが取れた印象でした。マスコミで働くふしぎ子パパの方に幼稚園から連絡が行き、ふしぎ子パパから私の方へ連絡が来ました。
16時すぎに都心の親会社のビルを出てすぐ、東京駅前まで行きました。
まだ、Kitteという元東京中央郵便局があったビルが工事中の時。
ビルの中に吊されたランプがグルングルン回っていたのが印象的でした。
警察が東京駅周辺にいる人々を、丸の内公園へ避難するよう誘導していました。
本来なら従うべきなのでしょう。
でも私は、いや、子どもを迎えに行かないと!と、別ルートに進みました。
その日は午後一から始まるプレゼン準備で、お昼を食べていなかったので、途中、自社へ戻って何か食べ物を!と思っていました。途中のコンビニを数件覗きましたが、ゲットできたのはドーナツひとつな状態だったからです。
コンビニの棚が空っぽの様子は、『これは、ただごとではないぞ?』を認識させてくれました。

社に向かう途中、小雨が降ってきましたが、コンビニに傘はなく。。
とりあえず、社に戻りました。
社の中は、今日はもう帰れないから泊まりだ~、飲みに行こう!な雰囲気が半分な感じでした。
私はパンプスから置いてあった歩きやすい靴に履き替え、引き出しにあったカロリーメイトをつかみ、プレゼン書類を置き、(この頃はまだPCではなく、紙の書類でした)社内の自販機ではお茶はなかったけれど、水は買えました。
今から帰っても大変だから、一緒に残って明日の朝帰ろう、と仲間に止められましたが、私は、どうしてもふしぎ子に会いたかった。
20分くらいだったでしょうか。準備をして自社を後にする時、お昼を食べてないと言うと、追いかけてきた仲間におにぎりを一ついただきました。
高菜のおにぎりだったのを覚えています。
それと、普段は水嫌いで飲まない水のペットボトルを持って自宅近くの幼稚園へ向かいました。
国道は、走りたくても、走れないくらいの人の渋滞。
すぐに幸運にも、タクシーに乗り込みます。
ただ、全く動きません。
ですがタクシーの中で、いただいたおにぎりを食べて、座れ、心の落ち着きを取り戻せたんじゃないかと思います。
タクシーの運転手さんが、動かなくてごめんね、とおっしゃるので、
いえ、こんな時なのに座れて、(幹線道路の脇には大量の人々)一人になって落ち着いて考えられる空間は貴重でした、と言って5分程度で降りました。

途中、神奈川県の川崎まで向かう女性たちと一緒に歩きます。
21:00までには迎えに行きたい!と思っていたのですが、途中『津波がくるぞ』との周りの方の声で、高台に逃げることもありました。東京で、です。
途中、自転車屋さんを何件か覗きましたが、皆さん考えは一緒。全て予約で売り切れでした。
バスを何台かやり過ごし、あ、2,3人乗れそう!な時に途中まで乗れました。
あとは、走ります。
もう、まるで東京マラソンです。
今日、走っていて思い出したのは、この時の感じでした。

既に幼稚園との約束時間を過ぎているのは分かっていました。
苦しくても走れたのは、地震が起きた瞬間、たまたまふしぎ子と幼稚園で一緒にいてくださったピアノの先生が、『ふしぎ子、無事。泣いています。』
とメールをくださったので、泣いていようが生きてるし!と信じれたから。走りきれば、ふしぎ子に会えるんだ!という思いでした。
このパワーは、
いただいたおにぎり。
ピアノの先生のメール。
職場の皆さんの、頑張れよ、かーさん、のことば。
タクシーの運転手さんの、お互い頑張ろ。
一緒に歩いた女性たちの、大丈夫!
色々なことが背中を押してくれているのを感じながら、足を動かしていました。

22:40過ぎ、幼稚園にたどり着き、私はその場へ座り込みます。
300人近くいる園児で残っているのは、ふしぎ子も含め4人でした。
こんな緊急事態に頼めるママ友、連絡をしなくても預かってくれるママ友を、自分は努力して作っていなかったのだ、と反省しました。

幼稚園に残されたふしぎ子は、ハイテンション状態でした。
先生方ももう帰れないのでしょう。幼稚園はとても明るかった。全員で無理に明るく振る舞ってくれていました。
坐り込んでいた私は、初めて自分で立ち上がれない事を経験します。
幼稚園の先生方に両脇を抱えていただき、超ハイテンション状態のふしぎ子が、かなりキツく私の腕をつかんでいるのを感じました。

私の震災イメージは、走っている時の自分の息の音と、ふしぎ子がぎゅっと握った腕の感覚。

帰宅後、深夜、水が買えなくなるかも!という危機感で近くの自販機を回ったのを覚えていますが、それは、深夜延々と続く津波の状況を伝える映像の中、多分ベッドに寝て?な人が飲み込まれていく映像が見えた気がするから。
空中を見つめる、うつろな目でした。
あの人はきっともういなくて、私とふしぎ子は、あの人の分も生きないといけないのだ!と何故だか強く感じて、そうだ、水を買わないと!で動いたのでした。

これが私の震災体験です。
たくさんのたくさんの命のご冥福をお祈りします。

そして母としては、石巻市の大川小学校の残されたランドセルの映像が忘れられないのです。
あの子達は今、高校生以上でしょう。
高校生になれなかった子達もいるんだ、という思いを持って、生ききれなかったその子達の分も、それがたとえ一流高校でなくてもいい。一生懸命自分がチャレンジした結果の(それは合否に関係なく)高校進学であって欲しいと願います。


最後までお読みいただきありがとうございました。
では、また次回!